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細川ガラシャ隠棲地
細川ガラシャ隠棲地
味土野(みどの)にある細川ガラシャ夫人の隠棲地『女城跡』は、
別名御殿屋敷ともいわれています。
明智光秀(あけちみつひで)が本能寺において織田信長を倒したことで、
細川忠興(ほそかわただおき)の妻玉子(のちのガラシャ)は逆臣の娘という立場になりました。
忠興は妻に咎(とが)の及ぶことを恐れ、山深い味土野の地に隠棲させました。
味土野(みどの)にある細川ガラシャ夫人の隠棲地『女城跡』は、
別名御殿屋敷ともいわれています。
明智光秀(あけちみつひで)が本能寺において織田信長を倒したことで、
細川忠興(ほそかわただおき)の妻玉子(のちのガラシャ)は逆臣の娘という立場になりました。
忠興は妻に咎(とが)の及ぶことを恐れ、山深い味土野の地に隠棲させました。
~ガラシャ隠棲地伝承について~
本能寺の変の後、明智の娘、玉が姿を消した、その先が丹後の山中味土野であったことが明らかにされたのは、1688年の『明智軍記』。1582年の本能寺の変の年から数えて実に100年後のこと。
また、 細川家が公式に、 「丹波之内中三戸野」 と認めたのは、さらに100年たった1788年。 匿ったものも同罪。 味土野衆に累が及ぶのを恐れてのことかもしれません。
また、 細川家が公式に、 「丹波之内中三戸野」 と認めたのは、さらに100年たった1788年。 匿ったものも同罪。 味土野衆に累が及ぶのを恐れてのことかもしれません。
しかし、どんな権力も、人の口まで封じることは出来ません。 野間、 世屋の村々には、織田方からも明智方からもねらわれる玉を丹後の領主忠興の奥方として、 食料を定期的に送るなど大切に守り通したことが、地元下世屋城主の家系の長男にのみ語り継がれていたということです。
また、その口伝には、 警護の武士の中に、若い鉄砲の名手がいたことを伝える話のあることを誰が知るでしょう。
また、その口伝には、 警護の武士の中に、若い鉄砲の名手がいたことを伝える話のあることを誰が知るでしょう。
稲富一夢齋がその人。 今は橋立智恩寺に眠ります。 玉も、不安の中にありながら、 忠興を信じ、 味土野の子どもたちに字を教えたり、流行病の時には厄よけの札を作ったり、 里に溶け込んで暮らしたことがしのばれます。 昭和 59 年建立のふるさと味土野碑には里を離れた60筆もの名前が刻まれています。 その先祖の味土野衆によって、 ガラシャは守り抜かれたのです。(味土野応援ボランティア)